2017-11-11
慶長5年7月26日 家康書状 第6弾?
豊臣直臣・上田重安宛書状です
こちらも返書になります
先にUPした小出宛の書状と内容はあまり変わりません
其元之様子具示給、祝着候、此表之儀、仕置等堅申付、即刻令上洛事ニ候、猶西尾隠岐守可申候、恐々謹言
七月廿六日 家康(花押摸)
上田主水正殿
(冩文書・財団法人上田流和風堂所蔵)
2017-11-11
慶長5年7月26日 家康書状 第5弾?
次は小出吉政宛の書状です
切々被入念、飛札祝着之至候、今日廿六日、先手之衆上申候、爰元之様子申付、近日可令上洛候、猶一庵(羽田)可申候、恐々謹言
七月廿六日 家康(花押)
小出播磨守殿
(脇坂文書)
こちらも小出からの書状に対する返書です
畿内の情報を送ってきたのでしょう
文中の羽田一庵(横浜一庵?羽田正親?→その後秀次家老)は秀長の家老だったようですが、両名とも慶長5年頃までに死去しています
詳細はわかりません
2017-11-11
慶長5年7月26日 家康書状 第4弾?
越後の堀秀治宛です
越後の堀家といえば、東国統括=東国惣無事であった家康の与力(補佐)大名だった蒲生氏郷の死後蒲生騒動を経て複数の大名の領地移動がされ越後に入りました。
信長の側近堀秀政(名人久太郎)の息子です
この転封の時、上杉家が旧領の年貢・百姓を持ち去った+転封を嫌がる家臣を置いて行った(のは秀吉朱印状違反)為に後日政権執行者だった家康に訴え、それが会津征伐に繋がったとされています
確たる史料がありませんが(二次史料のみ)「上杉家御年譜」には直江状で有名な兼続が「前年までの滞った年貢を早急に徴収するように指示を出した書状の写しがある為に「年貢持ち去り」の可能性はあります。
家臣団が各々の菩提寺を解体し会津へ持って行ったにも関わらず、「謙信の遺骸」を春日山城に置き去りにしたのですから、嫌がらせと受け取られても仕方がないかも
旧上杉家臣団による一揆も怖かったようですし
7月26日 家康書状 越後侍従宛
堀秀治からの書状への返書です
この書状では、東軍先発隊の後に家康率いる徳川軍もすぐに上洛する予定だったようです
関ケ原前、「家康は諸大名宛に勧誘書状を大量に発行した」と言われていますが、家康発行の書状の9割は続々と舞い込む諸大名からの書状への返書です
越後の堀家といえば、東国統括=東国惣無事であった家康の与力(補佐)大名だった蒲生氏郷の死後蒲生騒動を経て複数の大名の領地移動がされ越後に入りました。
信長の側近堀秀政(名人久太郎)の息子です
この転封の時、上杉家が旧領の年貢・百姓を持ち去った+転封を嫌がる家臣を置いて行った(のは秀吉朱印状違反)為に後日政権執行者だった家康に訴え、それが会津征伐に繋がったとされています
確たる史料がありませんが(二次史料のみ)「上杉家御年譜」には直江状で有名な兼続が「前年までの滞った年貢を早急に徴収するように指示を出した書状の写しがある為に「年貢持ち去り」の可能性はあります。
家臣団が各々の菩提寺を解体し会津へ持って行ったにも関わらず、「謙信の遺骸」を春日山城に置き去りにしたのですから、嫌がらせと受け取られても仕方がないかも
旧上杉家臣団による一揆も怖かったようですし
7月26日 家康書状 越後侍従宛
堀秀治からの書状への返書です
この書状では、東軍先発隊の後に家康率いる徳川軍もすぐに上洛する予定だったようです
関ケ原前、「家康は諸大名宛に勧誘書状を大量に発行した」と言われていますが、家康発行の書状の9割は続々と舞い込む諸大名からの書状への返書です
2017-11-10
慶長5年7月26日 家康書状写し
7月24日には三奉行も別心していた事を家康は知っていたとする論説が出ています
しかし、この書状を見る限りはまだ知らなかったのかも?とも思えます
挙兵はまだ石田三成と大谷吉継だと思っていたかもしれません
しかし、この書状を見る限りはまだ知らなかったのかも?とも思えます
挙兵はまだ石田三成と大谷吉継だと思っていたかもしれません
2017-11-09
慶長5年7月26日 京極高次宛 家康書状 その2
近年関ケ原関連の史料精査が進んでいます。
関ケ原合戦は全国諸大名を巻き込んだ「大戦」であるにも関わらず、逸話で語られている事が多くまだまだ未確定要素が多いです
一次史料からの考察が出てきて歴史学としての関ケ原界隈は活性化していますね
その流れ?で「小山評定」があったの?なかったの?論争にも発展しています
あった派もなかった派も通説(ドラマ等)で語られているような『福島正則が立ち上がり「内府に御味方する」というのはなかった』で一致しています
小山評定があったといわれている7月25.26日に家康は数通の書状を書いています
黒田如水(官兵衛)の書状にも小山で決まった情報の事が書かれていました
「高次宛書状 その1」にも「26日に御人数(軍勢)を差上げ(西上)させた」と書かれています
こちらは昨日UPした高次書状は「小山評定」で決まった事などが書かれており、こちらは高次からの書状が26日に到着したようでその返書です
関ケ原合戦は全国諸大名を巻き込んだ「大戦」であるにも関わらず、逸話で語られている事が多くまだまだ未確定要素が多いです
一次史料からの考察が出てきて歴史学としての関ケ原界隈は活性化していますね
その流れ?で「小山評定」があったの?なかったの?論争にも発展しています
あった派もなかった派も通説(ドラマ等)で語られているような『福島正則が立ち上がり「内府に御味方する」というのはなかった』で一致しています
小山評定があったといわれている7月25.26日に家康は数通の書状を書いています
黒田如水(官兵衛)の書状にも小山で決まった情報の事が書かれていました
「高次宛書状 その1」にも「26日に御人数(軍勢)を差上げ(西上)させた」と書かれています
こちらは昨日UPした高次書状は「小山評定」で決まった事などが書かれており、こちらは高次からの書状が26日に到着したようでその返書です
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