2017-08-25
慶長4年2月5日 秀忠書状
宛不明の秀忠書状です
内容から
秀頼に近しい人物
病中なのか?(利家?)
内容から
秀頼に近しい人物
病中なのか?(利家?)
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2017-08-25
年不詳3月10日 家康書状
奉行衆宛です
浅野長政が入らず、宮部法印が入っています
「京都御法度書之案文」(毛利家文書三・慶長2年)にも長政が入らず、宮部法印が入った案文があるようです
奉行衆と家康間で「銀子」の件での書状のやり取りなので、慶長3年に秀吉が臥した後、慶長4年3月 利家生前・三成も失脚前という事のようです
浅野長政が入らず、宮部法印が入っています
「京都御法度書之案文」(毛利家文書三・慶長2年)にも長政が入らず、宮部法印が入った案文があるようです
奉行衆と家康間で「銀子」の件での書状のやり取りなので、慶長3年に秀吉が臥した後、慶長4年3月 利家生前・三成も失脚前という事のようです
2017-08-21
舜旧記です
舜旧記正月2日の記載分です
二日、曇、及晩風雨烈、
左京亮唐納豆二袋、宗碩扇子一本・唐納豆一袋、同道珎扇二本、惠珎大原柿・昆布、次寺庵方へ、予礼二罷、由甫油煙一挺・筆一筆、女房衆十疋、予遣之、次當院被官南在家者来、源右衛門唐腐、与三郎、
2017-08-18
おはようございます(^^)
朝一番から勘違い発見!!
なので、お詫びです<m(__)m>
昨日UPした「10日分で~す」は、
よく見返したら
9日分
でした(^_^;)アハハ~
1週間以上の遅れを取り戻すべく、頑張ります!
2017-08-17
慶長4年2月29日 家康の自筆書状
家康は三英傑のなかでも(諸大名中?)一番自筆書状が少ない+殆ど内容を書状に書かない人物ですが、こちらの書状のそのレアな自筆書状です
「自筆で御見舞いなんてされたら号泣する」by戦国無双の高虎
「自筆で御見舞いなんてされたら号泣する」by戦国無双の高虎
2017-08-10
うーん????(-"-)????
昨日も少々忙しくてUP出来なかった(^_^;)
今日も時間がないから、短い?史料をUPしたいな~と思っているが何がいいのかな?
短い史料といえば家康書状なんだけど
家康=無口や愛想がない、とか聞くのだが、あれは素っ気ない書状のせいだと思う
家康は公家日記にかなりおしゃべりな描写がある(12時間ほどもしゃべっていたとか)
家康の書状は基本「詳細は使者の口上を聞いてね」だから
詳しい事は書状には書かれない
2017-08-08
正月2日 義演准后日記
二日 陰
先寅剋、沐浴、次着淨衣、護身法讀誦、次後夜念誦、次愛染護摩両座、次聖天供両座相續、次仁王經一(カ?)讀誦、次理趣三昧、先錫杖、出世悉出仕、如昨日、次出堂、祝儀如昨日、次入堂略之、不可説〱、次駄都供・不動供、毘(田へんに比)沙門供、各一座、次節供如例年、但出世・坊官・侍才二至マテ召出、各盃賜之、佳例也、良家衆無出仕、向後堅可仰付者也、興山上人江青銅三百疋、幷遍照院江百疋遣之、使大蔵卿法眼、賀札如例年遣之、尾池清左衛門へ、明日徳善院江礼之儀仰遣了、先百疋遣之、
旧冬肥後國求(ク)痲(マノ)郡願成寺勢辰、俄二印可懇望、免許了、仍今日印信遣之、同弟子快源印信遣之、同弟子」源辰、大儈都ノ補任頻二申入之間、金蓮院二仰付け遣之、是ハ印可最前申入了、彼補任云、
補任
權大儈都源辰
右准三宮被 仰下所候也、
如件、
慶長三年十二月廿九日 金蓮院
演照判
亮濟アサリ来、紙十帖進上之、照阿院小兒来、去年新知御寄附、仍亮淳才僧正取立了、珎重、門下繁昌、祝著〱、
當所被官才悉来、如佳例、少〃進上物在之、
鍛冶共来、似相〱進上之、北村黨礼来、
例時共行、出世悉出仕、拝殿例時同前、
愛染護摩如例、舎利講 修之、
傳聞、来六日秀頼卿大坂へ御移徒云〃、
疲れた~
寺社日記はかなり長いよ~
2017-08-07
慶長4年1月3日 島津義弘起請文
島津義久起請文です
慶長4年正月三日の同日、同じ忠恒(家久)、義弘宛に提出している2通目です
こちらは家康の事だけを抜き出したようなので特に重要だったと思われます
慶長4年正月三日の同日、同じ忠恒(家久)、義弘宛に提出している2通目です
こちらは家康の事だけを抜き出したようなので特に重要だったと思われます
2017-08-05
慶長4年1月3日 島津義久 覚
島津義久の覚書です
慶長3年11月頃に家康邸他を行き来した事を三成に問題視され、義弘・忠恒に対して提出しましたようです
慶長3年11月頃に家康邸他を行き来した事を三成に問題視され、義弘・忠恒に対して提出しましたようです
2017-08-04
おはようございます(^^)
昨日UPした「義演准后日記」に書かれてある一文
>傳聞、秀頼卿へ諸大名御礼、節分ハ小坂ニテ御沙汰云々
利家の逸話(利家夜話に書かれている)で
正月7日に家康と淀殿が秀頼の大坂移動を嫌がって利家に一喝された
を一度は聞かれた事と思います
しかし、すでに節分前に小坂=大坂へ移動は決まっている事なのでその話はなかったのです
西笑承兌という秀吉の公式文書などを作成したお坊さんも慶長3年に秀頼の大坂移動の事は書いています
↓
是斎下向候間一筆令啓候、爰元替儀無御座候、仍左馬進殿為貴殿御名代内府(家康)へ致御供、御仕合能候、内府も春ハ早々御上洛御待之由候、
一有中(有馬中書則頼)へも拙老同道、諸事弥以被頼入之由、左馬進殿如御聞候、具二令申候、先度之三ヶ条も春中書(有馬則頼)へ御出之刻令相談可申候、
一高麗衆各帰朝、天下之珍重可為御祝着候、人質□□(博多?)まて渡海候、於様躰者是斎二令申候、
一秀頼様ハ来正月節分以前大坂へ大半可為御下向候、」明春早々於御上洛者以拝顔可申承候間閣筆候、恐々ー、
(慶長3年)十二月七日 (西笑)承兌
山口玄(玄番頭宗永)
山口宗永は秀吉から付けられた秀秋の家臣です
この時期宗永は、秀秋の筑前からの転封の為に越前へ検地に行っていました
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