2017-11-10
慶長5年7月25日 長束正家宛 家康書状
内容から「小山評定」で西上が決定(当初は東軍先発隊のみ西上→その後輝元+奉行衆が西軍入りしたと確定し、家康自身も西上出馬に決定)し、新な兵糧等が必要になったので、長束に追加を指示した書状です
「内府違いの条々」発効前から輝元+奉行衆が三成の挙兵に同調したことは蜂須賀家正書状から確認できます(輝元を諌める内容)し、噂が出ていた事も忠興書状で確認できます
しかしまだ風聞の類で確信が持てなかったのかも知れません
「内府違いの条々」発効前から輝元+奉行衆が三成の挙兵に同調したことは蜂須賀家正書状から確認できます(輝元を諌める内容)し、噂が出ていた事も忠興書状で確認できます
しかしまだ風聞の類で確信が持てなかったのかも知れません
2017-11-09
慶長5年7月26日 京極高次宛 家康書状 その2
近年関ケ原関連の史料精査が進んでいます。
関ケ原合戦は全国諸大名を巻き込んだ「大戦」であるにも関わらず、逸話で語られている事が多くまだまだ未確定要素が多いです
一次史料からの考察が出てきて歴史学としての関ケ原界隈は活性化していますね
その流れ?で「小山評定」があったの?なかったの?論争にも発展しています
あった派もなかった派も通説(ドラマ等)で語られているような『福島正則が立ち上がり「内府に御味方する」というのはなかった』で一致しています
小山評定があったといわれている7月25.26日に家康は数通の書状を書いています
黒田如水(官兵衛)の書状にも小山で決まった情報の事が書かれていました
「高次宛書状 その1」にも「26日に御人数(軍勢)を差上げ(西上)させた」と書かれています
こちらは昨日UPした高次書状は「小山評定」で決まった事などが書かれており、こちらは高次からの書状が26日に到着したようでその返書です
関ケ原合戦は全国諸大名を巻き込んだ「大戦」であるにも関わらず、逸話で語られている事が多くまだまだ未確定要素が多いです
一次史料からの考察が出てきて歴史学としての関ケ原界隈は活性化していますね
その流れ?で「小山評定」があったの?なかったの?論争にも発展しています
あった派もなかった派も通説(ドラマ等)で語られているような『福島正則が立ち上がり「内府に御味方する」というのはなかった』で一致しています
小山評定があったといわれている7月25.26日に家康は数通の書状を書いています
黒田如水(官兵衛)の書状にも小山で決まった情報の事が書かれていました
「高次宛書状 その1」にも「26日に御人数(軍勢)を差上げ(西上)させた」と書かれています
こちらは昨日UPした高次書状は「小山評定」で決まった事などが書かれており、こちらは高次からの書状が26日に到着したようでその返書です
2017-11-09
慶長5年7月26日 京極高次宛 家康書状写し
家康の東征(会津征伐)について行った豊臣直臣で、「小山評定」を受けて7月26.27日に西上出発。
途中京極高次等の諸将に情報を届けつつ8月7日に大坂へ入りました。
10-11日の行程です
ビックリするほど速いです!!
2017-11-08
慶長5年8月13日 黒田孝高(官兵衛)書状
黒田如水=官兵衛は関ヶ原時天下を狙っていたとも言われています
しかし実際には家康(+その周辺)と連絡を取り続けており、その情報を他九州の東軍大名と分かち合い、攻撃目標なども家康の許可を得ています
当初から東軍大名として行動していたと言えますね
「小山評定はなかった」という説が出ていますが、こちらの書状には「小山で家康が東の儀(会津征伐等)を仰せつけ」て、「26日に西上が決まった」「27日に引き返した」事が書かれています
左太=福島正則
山城宮内=山代忠久(豊臣直臣)
です
しかし実際には家康(+その周辺)と連絡を取り続けており、その情報を他九州の東軍大名と分かち合い、攻撃目標なども家康の許可を得ています
当初から東軍大名として行動していたと言えますね
「小山評定はなかった」という説が出ていますが、こちらの書状には「小山で家康が東の儀(会津征伐等)を仰せつけ」て、「26日に西上が決まった」「27日に引き返した」事が書かれています
左太=福島正則
山城宮内=山代忠久(豊臣直臣)
です
2017-11-07
慶長4年正月5日義演准后日記
五日、霽、
懃行如昨日、丑剋先沐油(浴)、
従朔日至今日御番、宮内卿法眼舜盛、番子別在之、
助作来、樽二荷三種進上、
大住村政所以下来、 番匠来、但俄公儀指合名代来、珎重、
傳聞、五人御奉行衆元結ヲ拂云〃、太閤御所御遠行、旧冬迄ハ隠密之故ニ無其儀、高麗国群兵引取之間披露ノ躰也、大仏ニ鎮守建立、神ニ奉祝云々、今日ノ風聞、御葬礼モ」可有之与欠云〃、于今伏見ノ御城御座云〃、御定聊モ不異、■■奇特〱、秀頼卿諸大名奉崇也、神妙〱、
五奉行が剃髪したことが書かれています
2017-11-07
義演准后日記
四日、屬天晴、
後夜念誦、愛染言广(護摩)両座、歓喜天供両座、後夜時、演照僧都、為練磨聴聞免許了、天明以後、理趣三昧共行、
佐藤助右衛門へ樽遣之、使大蔵卿、 泉水始拂除、
松橋僧都来、三献賜之、 護广堂拂除、
本日頑張りました(^^)
2017-11-07
慶長4年正月3日 義演准后日記
正月の行事がまだ続いているようです
2017-11-07
慶長4年9月18日 宮部長凞起請文前書之事
慶長4年9月 家康による大坂入城後に豊臣家臣団?に提出させたとされる起請文(前書き)です
2017-11-01
慶長5年6月17日 増田長盛書状写し
田中吉次へ三河下向の挨拶に対しありがとうメールです
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