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2017-11-30

慶長5年8月13日  家康書状 1

吉田侍従・池田備中守・九鬼長門守宛です

村越茂助が家康と東軍先発隊の間を使者として行き来していました

詳しい事は口上で伝えたようです
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2017-11-29

慶長4年11月29日 清正判物

清正が領内に豊国社を勧請したようです

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2017-11-25

慶長5年9月15日 加藤清正起請文前書き

関ヶ原合戦当日に書かれた起請文前書きです

秀頼が幼少なので、秀吉の遺言に背き家康へ別心している者がいる

秀吉の遺言を守り、秀頼への御奉公するために家康に無二の御一味になる

公儀(秀吉の遺言による家康)の為としています


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2017-11-24

関ケ原本戦当日の輝元書状

関ヶ原当日の輝元書状(家臣宛)です

田辺城の細川幽斎=藤孝の事

大津城の京極高次の事などを報告しています

しかし大津開城に淀・北政所からの使者があった事は書かれていません

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2017-11-17

慶長5年6月29日 吉川広家書状

6月29日 吉川広家自筆書状
山九=山懸春往
祖九右=祖式長好

です

theme : 歴史
genre : 学問・文化・芸術

tag : 慶長5年6月吉川広家

2017-11-14

島津による伏見城留守居の話は創作じゃなかった? 慶長5年6月13日 近衛前久書状

6月13日 近衛前久書状



島津が伏見城を預かるとの噂?が出ていたようです


theme : 歴史
genre : 学問・文化・芸術

tag : 慶長5年6月近衛前久島津義弘

2017-11-11

慶長5年7月26日 家康書状 第6弾?

豊臣直臣・上田重安宛書状です

こちらも返書になります

先にUPした小出宛の書状と内容はあまり変わりません



其元之様子具示給、祝着候、此表之儀、仕置等堅申付、即刻令上洛事ニ候、猶西尾隠岐守可申候、恐々謹言

     七月廿六日             家康(花押摸)
       上田主水正殿


(冩文書・財団法人上田流和風堂所蔵)




2017-11-11

慶長5年7月26日 家康書状 第5弾?

次は小出吉政宛の書状です

切々被入念、飛札祝着之至候、今日廿六日、先手之衆上申候、爰元之様子申付、近日可令上洛候、猶一庵(羽田)可申候、恐々謹言
    
   七月廿六日                   家康(花押)
     小出播磨守殿

(脇坂文書)

こちらも小出からの書状に対する返書です

畿内の情報を送ってきたのでしょう

文中の羽田一庵(横浜一庵?羽田正親?→その後秀次家老)は秀長の家老だったようですが、両名とも慶長5年頃までに死去しています

詳細はわかりません






2017-11-11

慶長5年7月26日 家康書状 第4弾?

越後の堀秀治宛です

越後の堀家といえば、東国統括=東国惣無事であった家康の与力(補佐)大名だった蒲生氏郷の死後蒲生騒動を経て複数の大名の領地移動がされ越後に入りました。

信長の側近堀秀政(名人久太郎)の息子です

この転封の時、上杉家が旧領の年貢・百姓を持ち去った+転封を嫌がる家臣を置いて行った(のは秀吉朱印状違反)為に後日政権執行者だった家康に訴え、それが会津征伐に繋がったとされています

確たる史料がありませんが(二次史料のみ)「上杉家御年譜」には直江状で有名な兼続が「前年までの滞った年貢を早急に徴収するように指示を出した書状の写しがある為に「年貢持ち去り」の可能性はあります。

家臣団が各々の菩提寺を解体し会津へ持って行ったにも関わらず、「謙信の遺骸」を春日山城に置き去りにしたのですから、嫌がらせと受け取られても仕方がないかも

旧上杉家臣団による一揆も怖かったようですし
7月26日 家康書状 越後侍従宛

堀秀治からの書状への返書です

この書状では、東軍先発隊の後に家康率いる徳川軍もすぐに上洛する予定だったようです


関ケ原前、「家康は諸大名宛に勧誘書状を大量に発行した」と言われていますが、家康発行の書状の9割は続々と舞い込む諸大名からの書状への返書です


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2017-11-10

慶長5年7月26日 家康書状写し

7月24日には三奉行も別心していた事を家康は知っていたとする論説が出ています
しかし、この書状を見る限りはまだ知らなかったのかも?とも思えます

挙兵はまだ石田三成と大谷吉継だと思っていたかもしれません

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