2017-11-08
慶長5年8月13日 黒田孝高(官兵衛)書状
黒田如水=官兵衛は関ヶ原時天下を狙っていたとも言われています
しかし実際には家康(+その周辺)と連絡を取り続けており、その情報を他九州の東軍大名と分かち合い、攻撃目標なども家康の許可を得ています
当初から東軍大名として行動していたと言えますね
「小山評定はなかった」という説が出ていますが、こちらの書状には「小山で家康が東の儀(会津征伐等)を仰せつけ」て、「26日に西上が決まった」「27日に引き返した」事が書かれています
左太=福島正則
山城宮内=山代忠久(豊臣直臣)
です
しかし実際には家康(+その周辺)と連絡を取り続けており、その情報を他九州の東軍大名と分かち合い、攻撃目標なども家康の許可を得ています
当初から東軍大名として行動していたと言えますね
「小山評定はなかった」という説が出ていますが、こちらの書状には「小山で家康が東の儀(会津征伐等)を仰せつけ」て、「26日に西上が決まった」「27日に引き返した」事が書かれています
左太=福島正則
山城宮内=山代忠久(豊臣直臣)
です
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