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2018-01-29

伊達政宗 2通の起請文 その2

政宗の起請文その2です

その1の約1か月後慶長4年4月5日にこちらは正式?な形で出されました


 敬白 起請文前書之事
 一内府ヘ、惣別、御用之義、頼入ニ」付而、虚言表裏、毛頭」有間敷事、
 一密々之儀、為御聞候ニ、他言」仕間敷事、
 一乍勿論、無二無三、内府公ヘ」申合候間、向後縦如何様之世」上ニ成行候共、一筋ニ内府御手」前を守、可奉一命候間、万事」御心安、可預御取成事、以上
右、条々於偽物、
    卯月五日

・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 梵天、帝尺(釈)、四大天王、堅労(牢)地神、」惣者日本国中大小神祗、熊野」三所権現、伊豆、箱根、三島、八」幡大菩薩、神罰・冥罰、深厚」可罷蒙者也、仍起請文」如件、
           羽柴大崎少将
慶長四年卯月五日    政宗(花押) 〇血判
   有馬中書様
   宗 薫  老
         人々御中

(伊達政宗文書)

「一筋に内府御手前を守り~」というのが(笑)



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2018-01-29

伊達政宗 2通の起請文 その1

慶長4年正月に家康による大名との私婚問題が大老+奉行衆によって持ち上がり、伏見へ詰問使が派遣されました

畿内では逃げ惑う人々もいたようです

しかし家康と4大老+奉行衆間で起請文を交わし、この騒動は収束します

その騒動収束から日を置かずに石田三成が大坂で茶会を開きました

その時の客の中に、私婚問題で名前が挙がった伊達政宗もいました

葡萄酒が振る舞われたようです

どんな話が持ち上がったのかは、宗湛日記には書かれていませんが、伊達政宗は閏三月と四月に起請文を提出しています

一有馬中務少輔殿・今井宗薫迄被指上候御返書写

     覚
 一中納言殿御取合之事
 一何れニもかまハす、一筋ニ御手前守申上、行末共ニ、身上取立可被下事、
 一如何様之義成共、可被仰付候、毛頭不可存疎意事、
 一自然国へ之路次不自由之時、可預御吟味事、
 一節々如申、中悪衆へ御心付之事、
 一物色たち候て後、いつかたニても一ヶ所、御預被成候ハヽ、下々妻子共ニ置可申事、口上、
 一弥秀頼様無御油断、可然事、以上、
                   大崎少将
      閏三月八日        政宗判
        有馬中書様
        宗 薫  様

 右ハ今井七郎兵衛殿有之由、記録抜書ニも写有之、御記録へ写載之、


(伊達政宗書状)

さすがに三成の茶会に参加して「まずい
」と慌てたのかもしれませんね

 
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