2018-04-27
慶長4年閏3月10日 織田秀信書状
滝川周善軒宛です
七将事件の後に領地で隠居する三成の事が書かれています
七将事件の後に領地で隠居する三成の事が書かれています
スポンサーサイト
2018-04-18
慶長5年8月29日 結城秀康書状
「吉左衛門は橘左衛門か事、此吉左衛門は国清公(池田輝政)の御弟にて、後片桐半右衛門養子とす、今池田斎宮介家、九郎兵衛は出羽由之か事、阿老は荒尾のあやまり也、今因州の荒尾家、」と編者注で書かれています
2018-04-17
慶長4年3月29日 黒田長政宛 秀忠書状
黒田長政宛です
使者は鵜殿氏長?がたったようです
家康の私婚問題等で家康邸の警護のために諸大名が集まったことへの礼でしょうか
使者は鵜殿氏長?がたったようです
家康の私婚問題等で家康邸の警護のために諸大名が集まったことへの礼でしょうか
2018-04-12
慶長5年12月4日 義演准后日記
四日、雪不消、
在京、九條殿・鷹司殿罷向了、別當及黄昏来入魂、女御へ二荷両種進之、ちゃ阿へ一荷・一折遣之、いちやへ織遣之、
九條殿へ関白再任勅使、御辞退、
義演も12月4日に関白再任の勅使が出たと記載しています
しかし、一度断ったと聞いている
2018-04-12
慶長5年12月4日 時慶記
四日 天晴、朝食ヨリ左近丞□(ヲ)初テ呼、奔走也、肩衣・袴・百疋遣、内儀ヨリ織筋紅梅・段小袖北ニ給、下人ニ帯以下物遣候、申刻ニ帰宅候、留守ニ御福来儀候、大工弥左衛門尉・同子モ来、及飽食睡、夜謡、九条殿関白御再補アリ、 叙位ノ御■習礼アリト
西洞院時慶は12月4日に関白再任の情報を掴んでいます
こちらも「武家から返される」「家康からの奏上」との認識はないようです
2018-04-12
慶長5年12月19日 義演准后日記
十九日、晴、酉剋ヨリ雨降、
九條殿関白御再任、今日御拝賀云々、仍御樽進之幷御供衆申付了、 笠取沙汰人へ催促遣之、
従徳善院、去〃年當門作事雑米斤、千石ハ太閤御所被仰置候、其外貮百卅六石入申候、是ハ自是(見せ消ち)當門可遣候欤由申来了、 内府制札錢之儀申来了、
義演は梵瞬よりも早くに情報を掴んでいます
こちらも「武家から」返した等の記載はありません
家康の奏上とも書かれていません
2018-04-11
慶長5年12月21日 舜旧記
廿一日、天晴、
政所社参、奉納艮子百目、二位卿唐木綿、木綿端、慶鶴丸木綿五端、予二端、神官已下帯一筋、惣下給、
次幽斎女房衆上洛、予為見舞蜜柑一折、次妙春大姉年忌、齋僧布施廿一枚、又左衛門同女房齋米、
次女御腹之太子親王宣下、於陣座儀同堂上惣礼、北御所出、
去廿日、関白宣下有九条殿當職云々、武家ヨリ攝家へ被返之始也、内府家康公申沙汰也、
梵瞬は関白再任を家康の沙汰と見ています
後水之尾天皇の親王宣下もあったようです
2018-04-10
慶長5年7月晦日 藤堂高虎宛 家康書状
「内府違いの条々」発行後、家康は「賊軍」になったので上洛目途が立たずに江戸に引きこもった
打つ手がなかった
等と言われていますが、小山評定後も指揮権は家康に在りました
エンタメで繰り返される「小山評定」のイメージではなく、家康からの命令一下の元に東軍先発隊は組み込まれています
「愛知県史」には/の記載はありませんでしたが、「柳川市史」の田中吉政関連史料には/の記載があったのでこちらに準拠しました
打つ手がなかった
等と言われていますが、小山評定後も指揮権は家康に在りました
エンタメで繰り返される「小山評定」のイメージではなく、家康からの命令一下の元に東軍先発隊は組み込まれています
「愛知県史」には/の記載はありませんでしたが、「柳川市史」の田中吉政関連史料には/の記載があったのでこちらに準拠しました
2018-04-04
(慶長5年)8月23日 岐阜落城当日(多分)の織田秀信書状
年不詳の織田秀信書状
今度の籠城と書かれているので慶長5年と思われます
今度の籠城と書かれているので慶長5年と思われます
2018-04-02
慶長5年8月24日 福島正則書状(写)
羽柴三河守(結城)秀康宛です
岐阜攻城について
うしろつめ(後詰?)の石田三成の事も書かれています
岐阜攻城について
うしろつめ(後詰?)の石田三成の事も書かれています
Powered by FC2 Blog
Copyright © 初心者なのに古文書! All Rights Reserved.