2018-05-23
慶長5年 細川家老 松井康之・有吉立行覚書案
清正へ進言したことの覚書のようです
2018-05-22
慶長5年8月1日 黒田孝高(如水)書状 その2
(端書切封ウハ書)
ゟ
ヒロイエ
参人々御申 ジヨスイ」
天下之儀てるもと様御異見被成候にと奉行衆被申、大坂城御うつり
なされ候事、目出度存候、左候て、秀頼様へ別心存者あ(る脱)ましく候条、やかて
目出度志つまり可申候、左様候て、九州四國衆人志ちてるもと様御あつ
かり候やうに被仰上可然存候、九州にても鍋賀州、賀主、羽左近、毛壹、嶋
津此衆専存候、甲州人志ちハ、貴所様てるもと様より御あつかい候やう
に御才覺給へく候、左候て、何様にも御馳走可申候、人志ち奉行衆候へは、
てるもと様御馳走不成事候条、其御分別専一候、内符(府)公上國ハ必定ある
へきと存候、左様時ハ、又貴所様御きもいりニて、てるもとさま御事相澄
可申候、とかく此節御分別専用候、扨〱不慮之事共如何成行可申候や、
其表様子具令仰聞、一人御下候へかしと存候、左候て、我等心中も貴所様
ヘハ不残可申上候、恐々謹言
八月一日
(吉川家文書 950)
吉川広家宛の自筆書状と言われています
大関ケ原展でも展示されました
2018-05-22
慶長5年8月1日 黒田孝高(如水)書状
中川秀成宛です
同日で吉川広家と杵築城の細川家家老松井康之・有吉立行宛にも書いています
独自ルートで手に入れた情報でしょうか
同日で吉川広家と杵築城の細川家家老松井康之・有吉立行宛にも書いています
独自ルートで手に入れた情報でしょうか
2018-05-21
慶長5年7月24日 松井康之書状
当時杵築に居た細川家老 松井康之が中川秀成に出した書状です
(多分)日数的に「内府違いの条々」を見た後だと思います
「毛利と奉行衆が仰せ合わせて家康へ謀反」としているのが興味深いです
2018-05-17
慶長5年10月5日 安威了佐書状
豊臣家臣 安威了佐書状です
戦後に取成しを有馬法印、池田輝政へ頼んだようです
戦後に取成しを有馬法印、池田輝政へ頼んだようです
2018-05-17
慶長5年8月4日 家康書状
豊臣三中老の一人中村一氏の弟一栄宛です
同日、同内容の書状を複数送っています
同日、同内容の書状を複数送っています
2018-05-14
2018-05-14
慶長3年8月5日 起請文 奉行衆から家康・利家宛
秀吉生前の五奉行から家康・利家宛起請文です
2018-05-12
慶長3年7月1日 伊達政宗書状写
石田三成宛です
こちらにも秀吉遺言が書かれています
家康+増田+前田玄以の3人が伏見城奥に召集されて家康と利家に秀頼の後見(うしろみ)如何様にも取り立てる事他です
こちらにも秀吉遺言が書かれています
家康+増田+前田玄以の3人が伏見城奥に召集されて家康と利家に秀頼の後見(うしろみ)如何様にも取り立てる事他です
2018-05-12
秀吉の遺言 慶長3年6月27日 西笑承兌書状 案
上杉景勝宛の案文です
秀吉の様子を伝えています
来年(慶長4年)は東国・北國の大名は秀頼とともに大阪に
九州・中国の衆は伏見に、北政所は伏見で隠居
秀吉は伏見に(一年の)1/3居る
等が書かれています
秀吉の様子を伝えています
来年(慶長4年)は東国・北國の大名は秀頼とともに大阪に
九州・中国の衆は伏見に、北政所は伏見で隠居
秀吉は伏見に(一年の)1/3居る
等が書かれています
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